Story

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Oasisカラダメンテの誕生物語1

大学は兵庫県でした。新卒で入社したのは神戸の会社。
仕事を懸命にするもののオシャレもせず、化粧っ気のない私を案じてくれた人がいました。「若いんだから」と私が若い女性らしい楽しみを持つように教え導いてくれました。その人は50歳の元消防士、中途採用で入社された方でしたが、人望厚く大勢から慕われる人でした。時折「背中が痛い」と言っていた彼は病院嫌いで、背中の痛みをそのままにしていました。ある日、真面目なその人が無断で出勤してこないので、案じた社内の人が彼のアパートを訪ねたのです。すでに、彼は他界していました。脳幹出血でした。人望の厚い彼が、一人の部屋で孤独に最後を迎えたことに大きなショックを受けた私は、会社を辞め職を転々としました。

その後、浜松に戻り、派遣社員と飲み屋のバイトをスタート。そこで、中国人女性と知り合い、彼女から『すいな』という中国古来から伝わるマッサージの存在を教えてもらいました。自身が体の疲れをとるためにスイナの施術を受けて、実感したのはオールハンドのマッサージのトリートメントは、自己回復力を高めるということ。東洋医学の理論に基づいて「気・血・津液」のバランス、循環を整えるスイナは、心地よく、リラックスしながら、こりやむくみを解消し、全身の代謝を高める!深い関心を持った私は、香港に頻繁に行き、飲茶と買い物を楽しみながら、スイナを学びました。

Oasisカラダメンテの誕生物語2

その頃、介護用品の会社に勤め、自身も介護ヘルパー1級の資格を取得。ヘルパーとしてディサービスの仕事を体験。その時に、その後、マッサージの勉強をしながら仕事に駅前のリラクゼーションマッサージのお店に勤務し、毎日最低5名の施術を担当し年間1000人近い方に接することができました。施術技能を向上したい私は、ハーブ、アロマ、ホットストーンを使った施術を個人的に学び、『身体を温めることの重要性』に着目するようになりました。その頃、富士登山で縁を持った方の引き合いで、月に10日間は名古屋に出張マッサージで行くこととなったことが個人事業主として始まりでした。出張マッサージは、リピートしてくださる方が増える一方で多くの方に喜んでいただきました。月10日間の名古屋への出張マッサージを8年間続け、延べ2000人の施術を担当させていただきました。
リピーターが多いので、同じ人を何度も担当します。すると、身体の癖に気づくようになりました。前に施術したにも関わらず、前の状態に戻っている。その身体の癖を根本から取り除くためにはどうすれば良いんだろうと考えるようになりました。

Oasisカラダメンテの誕生物語3

名古屋に出張マッサージしていた頃は、ストレッチ整体やツボ押しをしていました。施術人数も増えて、猫背解消できるくらいに自分の技術も向上しました。しかし、骨盤の根本的な歪みなどにアプローチすることは難しく『ストレッチ整体』の限界を感じ始めた頃、
私自身が交通事故に巻き込まれ、『ムチウチ』と『背中とお尻の痛み』に悩まされる日々を送ることになりました。しかし、この体験が功を奏して、身体の痛みが取れない人の気持ちも深く理解できるようになりましたし、何より健康を取り戻すために、自身が多くの施術方法を体験することとなりました。名古屋で『気功』の先生に出会い、『吸い玉』『針』『漢方』を体験しました。それらで体質改善する中で、出会った施術法が『オステオパシー』だったのです。驚きました。どうしても治らなかった『ムチウチ』や『背骨の痛み』が一度で治ったのには驚きました。

こんなに素晴らしい施術があるんだ!そう感じた以来、私は、オステオパシーの施術を身につける!と決め、箱根に3ヶ月住み込み、オステオパシーを学びました。現在も修行中で、毎月勉強に行っております。そして、箱根九頭竜神社様へお参りし『妊活』の方へ、パワーをお渡ししています。『施術に完璧はない』と考えております。人様の身体に直接接するに当たって常に念頭に置いてますのは、ここに来院されるまでの経緯、痛みの度合い、身体の歪みは人それぞれ。千差万別の状況に接していることを念頭に、心も技も磨き続けると覚悟し、修行を続けている身ではありますが、患者様の声に押されて、2018年3月1日、オアシス施術院は誕生しました。

そして、様々な療法を統合し、オステオパシーの原理を追求し、トータルでボディケアするカラダメンテナンスサロン
2019年1月28日『Oasisカラダメンテ』と改名しました。今後も、皆さんの言葉にならない痛みや苦しみを察知し、カラダ本来が持つ健康な状態を目指し、カラダをメンテナンスさせていただきます。

Oasisカラダメンテもう一つの物語

『命の尊さ』を私は痛感しています。それは、2度も死ぬような事態を体験をしているからです。
一つは『地震災害』。阪神淡路大震災のあの日、私は伊丹市のアパートにいました。1月17日朝の5時46分、世界が終わるかのような音と驚く揺れで、私は目を醒ましました。運良く、真新しいアパートに住んでいた甲斐あって、私のアパートは崩壊しませんでした。しかし、周囲のアパートはほとんどが崩壊。壊滅的な事態です。私は食料を求めて、自転車で大阪を目指しました。その道中で目にした光景を忘れることはありません。命が助かった私が選んだ道はボランティアでした。中でも、身体障害のある方の車椅子の補助がとても大変で、障害者ケアのバリアフリーの重要性を感じました。これがゆくゆくの介護用品の会社に勤めたきっかけになったようにも思います。
『地震災害』は避けようのないことかもしれません。阪神淡路大震災を体験した者から見ると、災害の備えは当たり前のこと。私は、常に防災グッズを勤務先と自宅に用意し、もしもの時でも3日は生きられるようにしています。そして、災害があると、どこにでも駆けつけて、炊き出しでも、掃除でも、泥の書き出しでも、なんでもやります。 だから、東北大震災の後もできるだけ早期に現地に入り、ボランティアに参加。それからも全国どこでも災害時にはできるだけボランティアに参加します。それが命を残された者にできることだから。。。
私が『命』にこだわる理由はもう一つ。それは富士登山で帰りに天候の悪化。たまたま登山家の方と同行させていただいていたから、救われたものの、もし初心者だけの登山だったらと考えると、今こうしていないことは確実な状況でした。そこでも、私の命は救われたのです。だからこそ、自分にできることはなんでもさせて貰いたい!その想いで、施術させていただいております。

お店と自宅に3日分の避難用品